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主要な価値創造モデルとその評価(91):戦後日本のドル収入最大化モデルー37

 前回はわが国大企業が「ROE最貧国」を卒業し、同時にROEが株式資本コストを下回る「価値破壊経営」からも脱したことを取り上げました。最近の大企業の平均ROEは8-9%になっており、無リスク金利=1%、株式リスクプレミアム=5%とみると、わが国大企業が平均的には少しですがプラスの(株主)価値創造を行うところまで来たことになります。
 しかしこのシリーズの第35回で取り上げたように、欧米主要国の多くは平均ROEが安定的に10%を上回っています。2014年で見ると、アメリカ平均13.7%、スエーデン13.9%、オーストラリア12.3%、ドイツ11.2%、オランダ10%といった具合です。これに対して我が国は、1980年代の初めからROEの低下が続き、最近は改善していると言っても二桁台に乗せるところまでいっていません。平均ROEが株式資本コストを上回るようになったとはいえ、日本は依然相対的低収益国なのです。
 それというのも、低収益経営が許容されるとなると、国際競争上非常に有利にはたらくからなのです。高ROE国の競争相手に対して、それだけ売上マージンを引き下げることができるからです。販売価格を下げたり、広告宣伝費を増やしたり、アフターサービスを充実するなど、いろいろと都合のいい競争条件を享受できるのです。この結果、より限定的にではありますがわが国大企業は依然として戦後一貫して行ってきた低収益戦略を展開しているのです。
 急速に円高が進行した1980年代に、わが国企業の経営面でもうひとつ大きく変わったことがあります。日本企業は戦後一貫して、日本を生産拠点にして「良い物を安く、大量に」輸出して高い規模成長を続け、ドル収入最大化にまい進してきました。しかし80年代に入ると急速に円高が進んだため、いわゆる輸出主導の高成長が次第に困難になってきたのです。このため、80年代後半になると、多くの我が国製造業大企業は、輸出先での現地生産、人件費の安い途上国への生産拠点の移転に乗出したのです。下に示したわが国企業の対外直接投資額の推移がこの変化をよく示しています。

  わが国の対外直接投資額の推移

1981-85年平均   51億ドル
1986-90      321 
1991-95      207
1996-2000     256
2001-2005     351
2006-10     773 
(出所) IMF

 ここに示されるように、80年代前半は50億ドル内外だった対外直接投資額は、後半には年平均321億ドルへと急増しました。その後バブル崩壊後の失われた10年には200億ドル台へと低下しましたが、今世紀に入って再び大きく増えてきました。
 わが国大企業のこのよう生産拠点の海外移転の動きに対して、当時「日本の製造業は日本を見捨てるつもりか」などと言う批判にさらされました。これは何も日本に限られた批判ではなく、最近のアメリカのトランプ大統領の「アメリカ・ファースト」が、まさにその現代版と言えるでしょう。しかしこれは短絡的でナイーブな自国優先主義そのもので、アダム・スミスの昔から資本主義市場経済の本質は「資本の動きはボーダーレス」であり、経済合理性に基づく最適地生産主義こそ有限の資源の最有効活用につながるのです。それを通して企業の価値創造額の総和が最大化されるのです。
 80年代以降の日本企業の急速な国際化は、わが国の国際収支構造にも大きな変化をもたらしました。このシリーズの第5-6回で取り上げたように、1980年代までは経常収支の大半は貿易黒字によるものでした。しかしその後我が国の貿易黒字幅は次第に収縮し、貿易外収支、すなわち「所得収支」の黒字が大きく膨らんだことは、すでに紹介した通りです。
 所得収支の黒字は、主として「投資収益」からもたらされます。そして投資収益は直接投資が生む利益と、証券投資が生む利益から構成されます。すでに紹介したように、2011-15年の年平均で見ると、所得収支の黒字は17.3兆円にのぼり、その事実上すべてが投資収益によるものでした。その中、直接投資収益が6.2兆円、証券投資収益が10.5兆円となっています。
 このように、持続的な円高基調が続く中で、日本は引き続き相対的低収益経営を持続するjことによって輸出を伸ばし、他方では対外直接投資と証券投資を積極的に行うことによって、今日まで大幅な経常黒字を維持してきたのです。戦後の国策としてのドル収入最大化政策は、中身こそ変わってきましたが健在なのです。」」

主要な価値創造モデルとその評価(90):戦後日本のドル収入最大化モデルー36

 前回は日本の大企業がようやく「ROE最貧国」を卒業しつつあることを取り上げました。同時に日本企業は、低収益経営と裏腹であった「(株主)価値破壊経営」からも脱しつつあるのです。
 株式公開企業の経営の最低条件は、総収入 - 総コスト >0というものです。そして資本主義市場経済のもとでは、価値創造のサイクルはリスク資本、すなわち株主から集めた株式資本の投入に始まり、株式資本へのリターンの確保によって一巡します。したがって、1期間の経営評価の最低の判定基準は、投入した株式資本のコストをカバーするに足る(株主への)利益を生み出したかどうかになります。したがって、その期に企業が株式資本コストをカバーするだけの利益を生んだかどうかを計測することが、評価の基本になるべきでしょう。
 ところが、世の中で一般に使われる第一義的な経営の評価基準は、財務会計制度に基づく報告ルールです。そして財務会計制度は、肝心かなめの株式資本のコストを認識しないのです。これは企業の価値創造パフォーマンスを測るうえで、致命的な欠陥です。したがって、財務会計制度では何がしかの税引き利益を計上していても、株式資本コストを差し引くと、「赤字」経営の企業も非常に多いのです。
 もし企業が人件費を十分払っていなかったり、負債資本のコストである銀行借り入れや社債の利息を支払うに足る利益を上げていなかった場合には、赤字経営、デフォルト経営、債務不履行などと評価されるでしょう。しかし株式資本コストをカバーしていなくても、少なくとも日本では最近まで強く非難されることは全くなかったのです。
 しかし株式資本を含むすべての投入資源に対する正当なコストをカバーしていないとすれば、そうした企業は「フルコスト」ベースではコスト割れ経営状態、あるいは「デフォルト経営」状態にあるわけです。日本企業は戦後ずっとこうした経営を平然と行ってきたわけで、、私はこれを「価値破壊経営」と呼んで、警鐘を鳴らしてきました。
 株式資本のコストは、経済学的には投資家の平均的な「「機会コスト」と認識されます。現金で流出する原材料費や人件費、耐用年数表から簡単に計算できる減価償却費などと比べると、株式資本コストは抽象的で推計も簡単ではないのです。このブログの随所で取り上げてきましたが、株式資本コストは通常あのCAPMモデルを用いて、 無リスク金利 + 株式市場リスクプレミアム という形で推計します。無リスク金利としては一般に長期(10年物)国債の利回りを用い、また株式市場リスクプレミアムとして私は4ないし5%が適切と考えています。
 ところで、無リスク金利に関して、2000年以前とそれ以降で様変わりになったのです。私が現役バリバリの頃は、代表的な無リスク金利指標である銀行の1年定期預金や国債の利回りは、ずっと5-6%という水準が定着していました。それがバブル崩壊後の銀行システムの破綻とデフレ経済体質の定着によって、大幅に低下したのです。最近では、日銀によってマイナス金利政策が導入され、投資家にとっての無リスク金利も1%以下に低下してしまったのです。下に示す10年物国債の年平均利回りの変化が、その劇的な変化を端的に示しています。
 仮に無リスク金利として現状ではやや高めの1%を、またリスクプレミアムとして5%を用いて推計すると、現在の我が国の株式資本コストは 1+5 = 6% となります。前回紹介したように、最近のわが国大企業の平均ROEは7-9%のレンジにありますので、少なくとも平均的には株式資本コストを上回る利益を生み出すところまで来た、と言うことができるのです。最近になって初めて、日本の公開企業全体としては、フルコストをカバーして多少なりともプラスの価値を生み出す経営を行う所に来たわけです。長年この問題を指摘してきた私にとっては、大きな1歩前進と言える変化なのです。」」

       10年物国債の利回り推移(%)
1990  6.7   2000  1.7   2010  1.2
1991  6.3   2001  1.3   2011  1.1
1992  5.3   2002  1.3   2012  0.9
1993  4.3   2003  1.0   2013  0.7
1994  4.2   2004  1.5   2014  0.6
1995  3.5   2005  1.4   2015  0.4
1996  3.1   2006  1.8   2016  0.0
1997  2.4   2007  1.7   2017  0.6
1998  1.5   2008  1.5
1999  1.7   2009  1.4
 

主要な価値創造モデルとしに評価(89):戦後日本のドル収入最大化モデルー35

 前回は、今世紀に入ってわが国にも遅ればせながら株主重視経営の考え方が浸透し始め、大企業の平均ROEも二桁に近いところまで高まっていることを紹介しました。私は長年日本を「ROE最貧国」と呼んで警鐘を鳴らしてきましたが、最近になってようやくこの汚名を返上するところまで来ています。その状況を、主要国の平均ROEの推移で見てみたいと思います。
 下の表は、MSCI社が集計している、世界の主要23か国の平均ROEの水準を、2005年、2010年、2014年について比較したものです。
       主要国の平均ROEの推移 (%)
    国名      2005  2010  2014
日本           7.7   5.8   9.0
アメリカ        15.1  12.2   13.7
フランス        13.2  9.0    7.6
スエーデン      16.5  12.8   13.9
スイス         20.6  17.3   9.5
イギリス        14.1  12.3   9.9
オーストラリア    16.7  12.1   12.3
シンガポール    12.0  11.0    9.0
ドイツ         9.8   11.8   11.2
オランダ       16.8  10.2   10.0
23か国平均     14.6  9.6    9.3

 もちろん、国によってインフレ率や金利水準も大きく異なりますから、名目値ベースのROEだけの比較で単純に優劣を決めることはできません。しかし、2005年がそうであったように、最近までほとんどの国の平均ROEが二桁台にある中で、ひとり一桁に甘んじていた日本は、極めて特殊な存在でした。まさに「ROE最貧国」だったのです。
 しかし2010年ごろから、ヨーロッパを中心に、日本以外の多くの国で平均ROEの低下が目立ってきました。そして2014年になると、平均ROEが一桁になった国が23か国の中で15にも上ったのです。また、フランス、イタリアスペインをはじめ、日本を下回る国も8か国になっています。この結果、わが国はようやくROE最貧国から卒業したと言えそうです。長年わが国の低収益経営に警鐘を鳴らしてきた私にとって、これは非常に嬉しいできごとなのです。」」   
    

主要な価値創造モデルとその評価(88):戦後日本のドル収入最大化モデルー34

 戦後一貫して資本コスト割れ経営を行ってきた日本企業でしたが、前回はバブル崩壊後の90年代には収益性が一段と低下したことを紹介しました。実際、世紀の変わり目に当たる2000年―2001年にかけては、東証1部企業全体の利益が、マイナスに落ち込んでしまったのです。そこで、今世紀に入って日本企業の資本利益率がどのように推移してきたかを、大企業のROEで見ておきましょう。
   日本の大企業のROEの推移
     単独   連結         単独   連結
2001  -0.4  0.4     2007  8.3    9.8
2002   2.6  4.4     2008 -1.1   -1.6 
2003   4.6  7.1     2009  2.1     2.5
2004   5.5  8.6     2010  4.3     6.7
2005   7.3  9.6     2011  2.9     4.1
2006   7.5  9.9
(出所)日本政策投資銀行

 今世紀に入って、わが国にも遅ればせながら「株主価値重視経営」が浸透し始めました。これは何もわが国企業の経営者が急に株主の重要性に気が付いたというよりは、メインバンク=大株主制度が崩壊したためです。これまで長年、低収益経営でもよほどのことがない限りメインバンク依存で資金繰りの心配がなかったわけです。しかし主要な大銀行がすべて、不良債権処理の過程で債務超過に陥り、国家管理になりました。その結果、企業にとっては戦後初めて、本業から生まれる営業キャッシュフローをいかに安定的に稼ぐかが、まさにサバイバル条件になったのです。そのためには本業の収益性を高めて利益を生み出し、株式市場での評価を高めなければならないことに気が付いた結果なのです。失われた10年と言われた1990年代から2000年代の初めにかけて、多くの日本企業は未曽有の規模で事業ならびに財務のリストラを行い、経営資源の「選択と集中」に努めたのでした。
 これを反映して、わが国大企業のROEは、今世紀に入って目覚ましく改善してきました。平均ROEは2001年に
は単独ベースでマイナスに、連結ベースでもほとんどゼロに落ち込みました。しかしそれをボトムとして年々上昇し、2007年には単独で8.3%、連結では9.8%と、2桁まであと1歩のところまで高まったのです。
 ただ、2008年にはあのリーマンショックに伴う株式市場の大暴落と、それに続く世界的な不況が始まりました。その影響で2011年ごろまでわが国企業の平均ROEは、再び低迷することになりました。そして最近2-3年には再び連結ベースで8-9%の水準まで持ち直したのです。」」

主要な価値創造モデルとその評価(87):戦後日本のドル収入最大化モデルー33

 戦後日本のドル収入最大化モデルの大きな問題は、わが国を代表する大企業が、「良い物を、安く、大量に」輸出しまくることを、あたかも経営の目的関数であるかのように位置付け、その達成のために本来最大化を図るべき投下資本収益性、就中株式資本の収益性を犠牲にしてきたことでした。すなわち輸出大企業は、競争の武器として、あえて収益性を犠牲にした「低収益戦略」を取ってきたのです。輸出製品市場に欧米企業が忌み嫌う低収益競争によって殴り込み、市場シェアを獲得して、維持、拡大してきたのです。
 このコラムで指摘してきたように、資本主義市場経済の下での企業の価値創造活動の必要条件は、投入した資本に対するリターンが、資本コストを上回ることです。便宜的に簿価の収益性指標を用いて説明すると、総資本利益率(ROA)>加重平均資本コスト、株式資本利益率(ROE)>株式資本コストというのが、想定される関係です。戦後から80年代ごろまで、長期国債利回りや銀行の1年定期預金金利は、5-6%のレンジにありました。したがって、税引き前の無リスク金利は5-6%、株式リスクプレミアムを4%と低く見ても、当時の(税引後の)株式資本コストは9-10%、、実効税率を50%とすると税引き前では18-20%だったと推測されます。また、平均自己資本比率を50%とすると、(税引前)加重平均資本コストは12-13%にもなっていたと考えられます。
 下の表は、これを必要リターンの目途として、日本政策投資銀行の財務データを用いて、1960年から2000年にかけてのリターンの実績値と比べたものです。ここで、税引き前総資本利益率の指標として、「経営資本営業利益率」を用いることにします。これは、営業利益を「流動資産+固定資産ー建設仮勘定ー投資その他の資産+割引譲渡手形」で割った指標です。
      総資本利益率(税引前)   R O E(税引後)
      (必要水準:12-13%)  (必要水準:9-10%)
1960        9.9              9.8
1965        6.7              7.6
1970        8.4             12.9 
1975        4.8              6.1
1980        7.4             11.9
1985        5.8              8.2
1990        5.5              7.2
1995        4.0              4.0
2000        5.0              4.4
(出所)日本政策投資銀行「”財務データ”で見る産業の40年」

 ここに示されるように、わが国大企業の総資本収益率は、一貫して加重平均資本コストを下回っていたことが分かります。とりわけ80年代になると必要水準の半分以下に、そして90年代には3分の1程度にまで低下してしまたのです。
 次に株式資本収益率(ROE)ですが、戦後自己資本比率を極端に低く維持することによって、何とか必要水準を上回る努力をしてきました。増資の条件として、払込み資本金利益率を15-20%に保つことが求められたのは、既述の通りです。この結果、平均ROEは好調な年には必要水準を少し上回り、不況時には下回るという状態が定着していました。
 しかし80年代に入ると、一方では円高対応でさらに収益性を低め、他方では時価発行増資への移行で自己資本比率が高まったため、ROEも常に必要水準を下回る状態が定着したのです。バブル崩壊後の90年代には、その状況は一層悪化しました。
 このように株価が高騰した80年代を通して、総資本利益率は言うに及ばず、ROEもまた恒常的に資本コストを下回る、「価値破壊経営」が平然と行われていたのです。その必然の報いとして、90年代に入ると株価が暴落して、長期にわたる株価水準の訂正課程に入っていきました。そして現在もまだその後遺症は残っており、株価は80年代末のピーク水準の半分弱の水準で推移しているのです。」」

主要な価値創造モデルとその評価(86):戦後日本のドル収入最大化モデルー32

 前回取り上げたように、日本が世界第2の経済大国になり、日本的経営が世界中でもてはやされた1980年代を通じて、欧米の投資資金が持続的に日本に流入しました。これは強いドル売り-円買い圧力を生み、円レートは80年代を通して切り上がっていきました。80年代前半は200-250円のレンジにあった円レートは、半ばから後半にかけて急速に上昇し、80年代末には100円近辺まで円高が進みました。
 こうした持続的な円高圧力の下でも、日本の成長を担った輸出大企業は、収益性をさらに犠牲にしても、輸出競争力を維持しようとしたのでした。その結果、日本の大企業のROEは80年代初めの10%前後の水準から徐々に低下し、1990年には7.7%まで低下していたのです。
 このように長期的に低下トレンドにあった日本企業の収益性は、90年代に入ってバブル経済が崩壊するにおよび、壊滅的なダメージを受けることになりました。1989年末の株価下落に始まったバブルのj崩壊は、90年代に入ると急な坂を転げ落ちるように深刻になっていきました。80年代後半の株価の高騰は、企業や金融機関の持つ持ち合い株や不要不急の不動産価格の高騰を反映した部分が大きかったのです。本業関連の資産以外にこうした非生産的な資産に巨額の投資を行ってきた大企業や金融機関のバランスシートは、株価、地価の暴落を受けて急速に劣化したのです。
 バブルの崩壊に拍車をかけたのが、日銀の金融政策の急変でした。80年代いっぱい日銀は、アメリカからの圧力もあって、超金融緩和的な政策をとってきました。しかしこれが株価地価バブルを膨らませる大きな原因になったという批判を受け、遅ればせながら90年代の初めから急速な引き締めに転じたのです。80年代を通して二桁の伸びを続けたわが国のマネーサプライは、90年代に入るとゼロ%内外の低成長に転じたのです。この結果わが国の経済活動や企業の投資活動は急速に冷え込み、今日まで続く長期デフレ経済に突入していったのです。
 右肩上がりの経済環境を前提に、持続的な円高圧力の下でマージンを削ってきた日本企業の多くは、売り上げが伸びない新しいデフレ的環境の下で、フロー面でも大幅減益や赤字に陥るところが続出しました。こうして、わが国の企業経営は、フロー、ストック両面で、未曽有の危機に直面することになったのです。企業の平均ROEは90年代に入るとさらに一段と低下し、90年代末には全体の平均がマイナスになるという、前代未聞の危機に陥ったのでした。
 こうして我が国の産業界では、本格的な業務、財務のレストラクチャリング、伝統的な企業集団を超えた合併、買収といった激変の時代を迎えたのです。外国の投資会社や買収ファンドによる破たん企業の買収、救済、立て直しも、日常茶飯事になっていきました。その動きの中で、戦後日本の安定的成長を支えたメインバンク=大株主制度を柱とする間接金融制度、従業員・経営者運命共同体的な「人本主義」経営も大きく破綻し、その基盤であった終身雇用制度、年功序列制度もまた、なし崩し的に放棄され始めたのです。」」

主要な価値創造モデルとその評価(81):戦後日本のドル収入最大化モデルー31

 前回は日本企業の株式市場における評価は、1970年代半ばから80年代半ばにかけて、利回り重視の安定配当・額面発行ベースから、1株当たり利益の期待成長の基づく、PERベースの評価に変わっていったことをお話ししました。その基本的考え方は、1株利益成長の期待値が高い銘柄には、それにふさわしい高いPERで評価すべきだ、というものでした。それを主導したのは、マクロ経済の成功に裏付けられて、大挙して日本株投資を始めた欧米の機関投資家でした。
 日本経済は戦後復興から高度成長期を経て、徐々に成熟してきていました。実質経済成長率は60年代には平均10.4%でしたが、70年代には5.2%へ、そして80年代には4.4%へと減速しました。それでも当時の世界経済の中で、日本は相対的に最もマクロ・パフォーマンスが優れていると評価されていたのです。そしてそれからの類推で、欧米の機関投資家の間では日本の大企業の利益成長率も非常に高いに違いないという、強い思い込み、もっと言えば誤解が定着していたのです。実は日本企業の資本収益率ROE)は低いままで、むしろ80年代に入るとさらに下落し続けたのです
 。一方では時価発行の普及で急速に安定配当制度は崩れ、株式資本払込み利益率を10%以上に保つ必要もなくなりました。時価発行によって企業の手元には額面を上回る手取り金が大きく膨らみ、その大半は配当ではなく内部留保の拡充に回されました。株価の急騰と相まって、配当利回りは急速に低下に向かい、20%前後まで落ちた自己資本比率は40%近くまで上昇していきました。
 このブログで何度も解説したように、1株当たり利益の成長は、ROE×(1-配当性向)で推計されます。したがって、時価発行の普及による内部留保率、つまり(1-配当性向)の高まりは、1株利益の期待成長率にとってはプラス要因ではあります。そこで、ROEの低下というマイナス要因と、内部留保率の向上というプラス要因の綱引きの結果、1株利益の期待成長率がどのように推移したのかを、60年代から90年にかけて見たのが、次の表です。データは、日本政策投資銀行の主要企業財務データによっています。
            ROE(%) 内部留保率(%) 1株利益
                               期待成長率(%)
61-65年平均   9.0      31         2.8
66-70年平均  11.4      46         5.2 
71-75年平均   9.5      47         4.5 
76-80年平均   9.6      58         5.6     
81-85年平均   8.5      62         5.3
86-90年平均   7.9      64         4.6
 
 このように、わが国大企業のROEは、70年代をピークに、はっきり低下トレンドをたどったのです。とりわけ株価が急騰した80年代には、一けた台に落ち、90年には7%強まで低下したのです。したがって、高騰した株価は、決して企業のファンダメンタルズの裏付けがあったとは言えませんでした。
 株価は1株当たり利益×PERで示されます。もし当時の株価の急騰が1株利益の高い成長を反映していたのではないとすれば、それは単に株式市場がファンダメンタルズの悪さを無視して、ムード的にPERを高水準に押し上げた結果に過ぎないということになるでしょう。そこで、70年から90年にかけての日本企業の平均PERの変化を、アメリカとの比較で見て見ましょう。
  日米大企業の平均PERの推移(倍)          
           アメリカ   日本
1960年      17.7 
1965年      16.8 
1970年      16.5     10.8
71-75年平均  18.7     17.3
76-80年平均   8.5     20.3
81-85年平均   8.5     25.5
86-90年平均  14.9     50.1
 
 ここに示されるように、日本企業のPERは、ROEが持続的に低下する中で、右肩上がりの上昇を続けたのでした。そしてバブルのピークでは、平均が50倍という、持続不可能な高水準にまで上り詰めたのでした。バブルの崩壊とともに、日本の株価の大暴落は不可避で、十分予測可能なことだったのです。一方アメリカの平均PERは、70年代半ばまでは安定的に10倍台の高い所で形成されていました。しかし70年代後半からの10年は、長い株式不振の時代が続き、PERは一けた台が続きました。そしてようやく80年代の後半になって、再び10%台半ばまで回復したのでした。
 このように、日本企業の低収益経営体質は、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と称賛されて始まった1980年代も変わることなく、むしろ打ち続く円高圧力の下で輸出の伸長を持続させる手段として、さらにその傾向を強めて行ったのでした。」」


主要な価値創造モデルとその評価(80):戦後日本のドル収入最大化モデルー30

 戦後復興から高度成長期までの日本の企業経営を財務的に支えたのは、メインバンク=大株主制度を柱とする、いわゆる「間接金融制度」でした。ハイリスク・ハイリターンの株式という資金調達手段を、安定配当制度と株主割り当て額面発行増資制度という方式を制度化することによって、間接金融制度の中に取り込んだのです。
 前回紹介したように、わが国の増資制度は1970年代に入ると、最初はおずおずと、そして途中からは脱兎のごとく、時価発行方式に移行していきました。この変化を、私は戦後日本の企業金融分野で起きた、最も重要な出来事と言いました。なぜそうだったのかを、これからつぶさにレビューしていきたいと思います。
 時価発行は、既存のリレーション動機の政策的安定株主かどうかにかかわらず、その時々の株価と利益成長の将来見通しに基づいて、魅力を感じる不特定の投資家に、時価、あるいはそれに近い株価で新規に株式を売り出すものです。まさに「直接金融方式」と言われたもので、企業と大手金融機関との間の、長期的、総合的リレーションシップを核として築かれた、伝統的な間接金融方式とは真っ向から対立する方式でした。したがって時価発行増資は、当初はわが国の経済・産業政策上優先度の高くない分野の企業から始まりました。第1号になったのは、「その他製造業」に分類された日本楽器でした。それに続いて時価発行を多用したのは、消費者向けの流通・スーパーといった新興の企業群でした。これらの産業は、国家政策上優先度が低く、メインバンクも持たず、政策金融上優先度が低い分野でした。
 このように当初は時価発行増資はおずおずとはじまったわけですが、70年代も半ばから後半に差し掛かると、間接金融制度の恩恵をフルに享受していた大企業製造業、電力ガス、総合商社といった有名大企業の間に、雪崩を打って広まって行ったのでした。そして日本企業の株価形成は、安定配当、額面増資をベースにした、利回り重視の「疑似確定利付証券」から、将来の1株当たり利益の成長性を織り込んだPERベースの評価に移行していったのです。
 すでに紹介したように、東証1部の単純平均株価は、戦後1970年ごろまでは100円―200円のレンジで、極めて安定的に推移していました。ところがそれが、75年には268円、80年には383円、85年には682円に、そして90年には1578円へと、まさに右肩上がりで大きく水準訂正したのでした。
 これを、当時「ジャパン・インク」を代表する銘柄と目された、日立製作所について見て見ましょう。同社の株価は、長年100円―300円のレンジで安定していました。ところが1980年から81年にかけて、「突如」1,000円を上回る水準に暴騰したのです。アメリカにおける無担保社債発行なども相まって、同社が安定配当銘柄から1株利益の成長を重視する時価発行銘柄に変わったとする、市場の評価尺度の変化が起こったのです。
 このような株価面の「突発的な」高騰は、5年程度の違いはあったものの、1部上場のほとんどの銘柄に関して、70年代半ばから80年代半ばのどこかで見られました。何しろ市場平均が2倍、3倍、5倍と高まった時期ですから、個別銘柄で見るとかつての安定株価レンジを大きく突き破り、5倍、10倍、あるいは何十倍にも上昇した銘柄も珍しくありませんでした。」」

主要な価値創造モデルとその評価(83):戦後日本のドル収入最大化モデルー29

 前回は額面発行、安定配当制度が、株式を安定保有し、原則市場で売買しない大株主であった銀行や大手金融機関の必要収益率が10%前後だったことに応えることを主目的に定着したものでした。つまり、株主割当て、50円額面払込み、1株5円配当を維持することによって、安定株主が常に増資に応じてくれる条件を担保したのです。
 一方、株価を形成の主役の個人投資家にとっては、必要収益率は機関投資家よりはかなり低く、例えば定期預金利率並みの5%程度と考えられました。すると50円払込み、5円配当を約束する大企業の普通株は、疑似確定利付債券、あるいは優先株に近く、100円前後の理論価値を持ったのです。したがって当時の株価は、額面をかなり上回る水準で売買されていました。安定保有の金融機関株主にとっては、いわゆる「含み益」が恒常的に存在する状態になっていたのです。
 さて、当時の単純平均株価は、ほぼ一貫して100と200円の間で変動していました。ほとんど常に、上記の理論価値をかなり上回っていたのです。その理由は次の通りです。額面発行時代には、安定配当と並んで、もう一つの約束事がありました。増資の際は額面あるいはそれ以下の株価で、既存株主に優先的に払込み権(優先募入権と呼ばれました)を認めるというものでした。既存株主が何らかの都合で失権したものに限り、時価に近い株価で公募されたものでした。そこで、流通市場で売買する個人投資家にとって、1対1の額面増資が行われる場合の採算を考えてみましょう。
 100円の市場価値を持つ普通株が、払込金額50円で追加にもう1単位取得できるのです。もちろん増資後も5円配当が維持されることが大前提です。この結果、50円払込み権は50円の市場価値(オプション価値)を持つことになります。つまりこの払込み権は、行使の自由を持つ一種のコールオプションだったのです。この結果、流通市場における既存株式の理論価格は、100円プラス50円、すなわち150円になります。実際当時は増資権利付き最終株価は、ほぼこの理屈通りに動いていました。権利を行使する株主は50円払いこんで100円の価値のある株式を手にし、行使しない株主は手持ち株を150円で処分してやはり50円の現金を手にしたわけです。
 もちろん、権利行使日が過ぎると単純株価は権利落ちして、この例では100前後に下落します。しかし権利を行使した投資家の手元には、もう1単位の株式があるわけです。
 この理屈を敷衍すると、経営が順調な大企業の場合には、当時は3年おき、遅くとも5年おきには次の増資が期待されました。したがって合理的な市場なら1回きりの増資の権利だけではなく2回あるいは3回程度の増資期待を織り込んだ株価形成が行われるのが自然だったわけです。したがって当時でも優良銘柄の中には、200円台、あるいは300円台の株価がついているものもありました。しかし予見しうる将来10年ぐらい先までの増資可能性をいくら織り込んでも、平均株価が500円とか1,000円まで買えるなどとは考えられなかったのです。」」
 


主要な価値創造モデルとその評価(82):戦後日本のドル収入最大化モデルー28

 前回の続きです。額面発行時代に安定配当が額面の10%、50円額面銘柄なら年5円配当が基本とされた背景を考えてみたいと思います。それは株式資本の安定的提供者であった金融機関大株主が、増資に応じる条件として本業の実効運用利回りを下回らない配当利回りを必要としたことにありました。これは特に運用利回りで経営を問われた生保や信託銀行によって重視されました。当時これらの金融機関の運用の中心は中長期貸付であり、高度成長時代の実効貸付利回りは、10%前後になっていたと考えられました。このため、増資の際の払込金額に対する年利回りが10%あるいはそれ以上になることが、持続的に増資に応じるための最低条件だったのです。これらの機関投資家は、原則として市場で売買することによって値上がり益を実現することはしませんでしたから、配当金が利回りの主要な源泉だったのです。
 大株主としてのメインバンクは、信託や生保ほど運用資産の実効利回りを厳しく問われたわけではありませんが、投資額を簿価で認識し、それに対して安定的に10%、あるいはそれ以上の配当利回りが得られる仕組みは好都合でした。銀行は基本的に貸し付けという確定利付き債権での運用を本業としており、株式がハイリスク・ハイリターンのリスク証券ではなく、疑似確定利付き証券として位置づけられた方が、経営的に便利だったのです。
 これらの安定株主にとって、50円払込み、5円配当の株式の投資価値は、理論的にいくらと考えられたでしょうか。これは、財務理論で5円キャッシュフローの無限の流列を必要収益率、すなわち10%で割り引いた現在価値に相当します。5÷0.1、すなわち50円です。したがって、50円という額面が理論的な価値に相当したのです。
 しかし実際の株価は、おおむね100円台で形成されていました。これを考える上で重要なのが、当時の日本の株式保有構造と、流通市場形成でした。つまり株式の大半は市場で売買しない機関投資家によって保有され、その期待リターンは10%前後の「安定配当利回り」でした。一方、市場株価は主として短期のトレーディング動機の個人投資家だったのです。このシリーズの第71回で紹介したように、その当時銀行の定期預金や長期国債の利回りは、年率5-7%程度でした。機関投資家のように10%を安定的に得られる投資対象はありませんでした。つまり、当時の日本では、投資の期待リターンに関して、決して市場均衡水準が一律に決まるような状況ではなかったのです。
 そこで、説明のための単純化として、個人投資家の株式に対する期待利回りが5%だったと仮定しましょう。すると同じ50円払込み、5円の安定配当が期待できる株式の、理論価格はどうなるでしょうか。割引率が10%ではなく5%と低いわけですから、5÷0.05=100円となります。つまり同じ特性を持った投資対象が、機会リターンの低かった個人投資家にとっては、100円の価値を持っていたのです。そして額面と市場株価の差額は「含み益」と呼ばれました。市場株価がほとんど常に額面をかなり上回っており、増資に応じるごとに含み益が増えていくシステムは、銀行やほかの機関投資家にとっては、株式というリスク証券を抱える上でまことにありがたい状況だったのです。」」
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